全国藩校サミット福山大会が19日開かれ、松浜町のリーデンローズに32藩の現当主、関係者が集結。福山藩の歴史や藩校、教育について語り合った。
福山藩の藩校、誠之館の流れを汲む福山誠之館高校の生徒も活躍した。
サミットは2002年、東京都の湯島聖堂(江戸幕府 昌平坂学問所)を皮切りに、藩校教育の伝統や精神を見直し活かそうと、全国持ち回りで開催されており、19回目。
今回、阿部正弘公によって藩校・誠之館が創設された福山は、福山城築城400年、過去最多の34藩が出席を表明した(直近の事情で2藩欠席)。
大会実行委員長は、福山誠之館同窓会会長の村上正高さん(昭和43年卒)が務めた。
現代の当主が客席からステージへ上がる際には、福山誠之館高校の生徒が、プラカードを持って先導した。
1人ずつ中央で紹介された後、着席。
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」
福山誠之館高校の約50人がステージに上がり、校名の元となった「中庸」(四書のひとつ)を朗々と素読した。
記念シンポジウムも開かれた。
これまでは研究者による講演がおこなわれてきたが、福山城の城主だった3家の当主がそろい、初めて企画されたという。
サミットを主催する(一社)漢字文化振興協会会長の徳川斉正さん(水戸徳川家15代当主)がパネリストとして進行した。
阿部家当主に、たくさん語ってもらえるようと福山の日本酒「天寶一」をすすめて、登壇者も会場も和ませる場面もあった。
水野家20代当主の水野勝之さんは、「水野家は、お家断絶でなくなったのかと言われますが、転封になり勝成のひまごが結城藩で再興し幕末を迎えました。どっこい生きております」と語り始め、「勝成公は放浪伝説があるように、藩主になる前からこの地域をよく知り人脈も築いた。また、色々な人に仕えており、各地から人を連れて来て重要なポストにつけた」と初代藩主について語った。
コーディネーターの徳川さんは「潰した張本人はそこに座っている宗家のほうで、水戸藩ではございません」と軽妙な語り口ですすめた。
松平家16代当主の松平忠昌さんは「忠雅公は16歳で福山城城主になった。松平家は、幕府の一番近くにいる転勤大名で、水野から阿部へ1700年から10年間のつなぎ役。報じられて9年後に福山へお国入りして1年で桑名へ移った。当家は行田市の忍城(おしじょう)で幕末を迎えた」。福山では1代限りの短い期間でもあり、控えめに発言した。 阿部家17代当主の阿部正紘さんは「阿部正弘は中背で色白、勤勉で温厚柔和。私とは違いますね。大奥の女中に絶大な人気だったとか。ペリー来航で諸外国に劣っていると感じ、教育が大事と思ってすぐに誠之館を設立したのではないか」などと語った。
サミットを終えて、運営にあたった福山誠之館同窓会幹事長の島田斉さん(地吹町68歳)は多くの協力に感謝しながら「過去最多の藩の参加をいただいた。代々の福山藩が他藩と対立せず、中立的な立場、関係性の良さがあったのだと感じた。誠之館の生徒も頑張ってくれ、歴史をつないでいく良いきっかけになったのでは」と意義を語っていた。
藩校サミットの開催を記念して、来年2月頃、校内に記念碑の建立も予定しL、準備をすすめている。
ご当主同士が顔見知り、友人に近い関係のところもあり、ざっくばらんな「わがやの歴史」が魅力的だった。
では、それぞれの地域で特徴的な藩校教育の伝統は?今後、藩校教育で大切にされた漢字文化や日本語をどういかすのか。教育面では、もっと聞きたくなった。
来年は20回目の開催。第1回の江戸幕府昌平坂学問所(湯島聖堂)が会場となる。どう20年を総括されるのか、会場入りまではできないだろうが、注目したい。
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