INTERVIEWEE
長浜公民館/三好 邦男館長
▲2014年2月の歩き初めの様子
長浜小学校の北側にある「希望の長浜ロード」は、雑木林を抜ける約100mの小道です。この通りは、防災遊歩道として地域の人たちで整備し、2014年に完成しました。
地域の大半が海抜0mという我が学区において、高台にある小学校は最高の避難場所。東日本大震災で津波災害の恐ろしさを知った私たちは、校舎南側の通学路とは別に、もう一つ避難路を確保するこ とにしたのです。当時、ジャングルだった山に分け入り、延べ250人で2年がかりで遊歩道をつくりました。
廃材を積み重ねた倉庫のようなものもあり、手作業で撤去しました。
伐採した雑木を運び出したり、大量のごみを廃棄したり。
ユンボの登場で、道づくりは一気に進みました。
“プラ擬木”を使って道の脇を整えたあとは、一輪車で何往復もしながら砂利を運んでいきました。
最後は、製鉄技術のある地域の人のおかげで立派なアーチも完成。名前は公募し、小学生が名付けた ものです。このとき記念に植樹した桜の苗木は、まだ幼いながらも花を咲かせるようになりました。この長浜ロードを、地域防災のシンボルとしても、健康のための遊歩道としても、皆で維持管理していきたいです。
「岩谷焼」は長浜学区の「皿山地区」で作られていた焼き物です。江戸時代の文政年間(1818~1829年)に誕生したといわれています。
その頃、皿山地区は「岩谷」という地名だったため「岩谷焼」と呼ばれるようになりました。
岩谷焼は、ご覧の通り色鮮やかな美しい色が評判で、鞆の保命酒を入れる徳利として使われるように なると、たちまち福山藩の貴重な産業の一つに成長。そして、幕府への献上品としても使われ、全国 に名を馳せていったのです。残念ながら窯は、材料に使われる粘土が掘り尽くされてしまった1884年(明治17年)に閉じられて しまいました。そのため、岩谷焼は個人が所蔵するものが残っているだけで、現在はほとんど目にす ることがなくなった幻の焼き物とされています。
ちなみに皿山地区は、JFEスチール(鋼管町)のすぐ目の前にあります。そして、焼き物に必要な土・水・火の神様を祀った「三神社」があり、今も地元の人がお参りをしています。
【三神社】
民家裏の竹林を進むと、おとなが一人通れるくらいの小さな鳥居があり、
そのすぐ先に、小さな祠があります。三神社です。
祠の下には、ご神体の岩谷焼があります。
周辺に残る陶器のかけらが、窯の窯の名残を感じさせます。
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