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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2015.3.27

異業種リレーの『わ』No.503 Cut 遊 代表 青木 幸久さん


今回は、「かとうベーカリー」加藤恭平さんのご紹介により、
「Cut 遊(福山市神辺町大字川南1587-1 TEL.084-963-2798)」青木幸久さんに登場願いました。

 

理容という「天職」を
妻と二人で力を合わせて貫き通します。

…厳しいも当り前なら乗り切れる
 兵庫県尼崎市で生まれました。ひとつ上の姉と2人姉弟です。父の仕事の関係で山口県、島根県、岡山県と引っ越しました。幼少の頃のことはよく覚えていませんが外で元気に遊んでいたと思います。小学校の頃は竹馬や将棋をして遊んでいましたね。学校へ竹馬で通ったこともありました。勉強は嫌いでした(笑)。ソフトボールが好きで体育でソフトがあると嬉しかったですね。中学では身体が大きかったので柔道部に誘われ入部しました。2年生の先輩に「青木(姉)の弟だろうが」と言われ、よくかまわれていました。2年になってからはクラブよりも高校生の先輩が監督兼コーチのチームで野球をするほうが楽しかったです。まあまあ強いチームでした。市民球場で開催される大会にも出場しました。それと午後の授業を抜け出して流行のインベーダーゲームで遊んでいました。先生に見つかり職員室でこっぴどく絞られました。でも懲りることなく以降も遊んでいましたね。卒業前に先生に「このままだったら留年だ」と言われ、最後の1週間だけは超がつくほど真面目に通いました。今思えば義務教育なので留年は有りえないのですが、純粋でしたね(笑)。大型タンカーに乗っていた叔父に憧れ「俺も船乗りになりたい」と相談したところ勉強して商船学校へ進むよう言われました。勉強が嫌な私はあっさりと断念しました(笑)。そんな私に母が理容師の道を進めてくれました。それなら俺にも出来るかも?と思い岡山市内の理容院で働きながら専門学校に通うことになりました。入学して学科の試験もあることを知りました。この時ばかりは私も観念しました。生まれて始めての猛勉強でした。お店では先生が専門学校の理事と理美容組合の副会長をされておられる方で、先生の顔に泥を塗ることの無いようにと釘をさされました。真面目に頑張るしかありませんでした。朝6時から7時までは掃除、それから15時半まで学校、授業が終わったら直ぐに店の手伝い、19時に閉店したら片付けて24時までは技術の特訓です。先生が組合の役をしていた関係で研修生も沢山受け入れていたので、よい刺激をもらいました。「負けてなるものか」と必至で頑張ることが出来ました。今振り返ればこの5年間のお陰で今の私があると思います。


…芸は身を助く
 この頃は3年勉強、2年は御礼奉公です。もう直ぐ5年という時に都会への強い憧れから悪友と大阪へ遊びにいきました。お金も無かったので直ぐに帰るつもりでしたが、「自衛隊に入らないか」と声を掛けられ興味本位でついて行きました。とんとん拍子に話が進み試験を受け入隊が決まりました。入隊までの間の住むところや食事つきのアルバイトまでも紹介してもらいました。そして、11月に滋賀の駐屯地に配属されました。お正月休みで笠岡に帰ったとき、皆から理容師を頑張るよう説得され、やる気を取り戻しましたが、途中脱隊はご法度です。脱走しても必ず連れ戻さることを聞いていたからです。ダメもとで上司に相談したところ除隊を認めてもらえました。私は入隊して一度も部隊の訓練には参加したことがなく、仲間や先輩、上司の散髪係を命ぜられていたのが異例の処置となったようです。「お前は良い散髪屋になれるよ」私は理容師として認められた気持ちになりました。天職にと決意した瞬間でした。姉の友人、今の妻の紹介で妻が勤める笠岡の理容院に就職。5年間お世話になりました。そこで知り合った先輩に独立採算制で店を任せるのでやってみないかと誘われ、福山で今のお店をオープンいたしました。25歳でした。経営は勿論、初めてです。しかも知らない土地でかなりのリスクでしたが、これをチャンスにしようと妻と力を合わせ頑張りました。しかし、経営は自転車操業1年半で借金は膨れ上がりました。でも、恵まれた2人の子どもを励みに様々な苦難を乗り越えてきました。お客様や妻に支えられ今年25周年を迎えます。今は体調を崩し長い立ち仕事が出来なくなり、朝6時から15時までの営業に変更して頑張っています。早起きや仕事前の常連様にご好評いただいております。これからも妻には苦労かけますが身体の続く限り一生現役で頑張って参ります。


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