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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2015.3.6

異業種リレーの『わ』No.501 高橋カバン店 髙橋伸次さん


今回は、「有限会社シャルム 菊寿堂」福田陽子さんのご紹介により、
「高橋カバン店(福山市大黒町2-30 TEL.084-923-2731)」髙橋伸次さんに登場願いました。

 

念いを継ぎ「価値あるBagを追求」
素晴らしさを継承し続けます!!

…とことんが道を開く!!
 福山で生まれ育ちました。7歳上の兄と5歳上の姉の3人兄弟です。おとなしい性格では有りましたが、近くの公園やお寺の境内で元気に遊んでいました。家は昭和5年に祖父が開業したカバンの専門店です。2代目の父の背中を見て育ちました。その影響と血筋か、小さい頃から手先が器用でものを作ることが大好きでした。友達と駄菓子屋に行ってもみんながお菓子や飴玉を選んでいる時も私は組み立て式のおもちゃやプラモデルのコーナーで夢中に成っていました。小学校に上がってからはケント紙で飛行機を作ったり、図書館で木を削って作るソリッドモデルを発見、これにはハマリこれまた飛行機を作って遊びます。宮崎駿の「風立ちぬ」で有名になった、零戦の設計者の堀越二郎に憧れ将来は本物の飛行機を作りたいと思っていました。でも、勉強は好きでは有りませんでしたね。特に体育と音楽が苦手でした。近所の塾に託児所代わりに通わされていたので成績は中位でしたね。一番の思い出は今でも時々言われることですが交通事故で足の骨を折って入院したことです。母が付き添ってくれたので家は大変だったようです。姉が家事をやってくれたみたいで、家族みんなに迷惑をかけました。中学に上がってからは卓球部に入りました。早い時間からの英語塾に通っていたので、毎日のクラブ活動には出られませんでした。この頃はプラモデル作りもかなり本格的に成っていました。ニッパやカッター、やすり等の工具は父の仕事場に沢山あったので重宝しました。大切な仕事道具を勝手に部屋に持ち込んでは父によく怒られていました。ラジコンにもハマリました。ボディーを作るのはお手の物で、モーターのエナメルを巻き直してパワーアップなんかもやっていましたね。微妙な調整が必要になりますが、モーターの磁石のところへ紙を挟んでのボアアップなんかもやりました。合同庁舎や裁判所の中庭でその性能や操作技術を競って遊びました。高校は地元の公立高校へ進みました。クラブはフェンシング部に入りました。中学にはフェンシングが無いのでみんな同じスタートラインなのでどこまで出来るか自分を試してみたいと思ったからです。週5日のクラブ活動はハードでしたが自分なりに楽しさを見つけ頑張り抜きました。3年では部長も務めさせてもらいました。どうにかこうにかですが中国大会にも進むことも出来、自分の中ではひとつの目標が達成できました。この頃のプラモ作りは技術、精度、共にかなり高度になっていました(笑)。カメラ部に遊びに行ったのがきっかけでカメラにもハマリました。たまたま、話せば長い訳があって家に一眼レフのカメラがあったのもハマッタ原因ですかね。
…使命、天職を全うします。
 大学は東京の私立大学の経営学部に進みました。この時には兄が後を継がないことを感じて、誰に言われたわけでは有りませんが俺が継ごうと覚悟していました。ハマルと徹底的にやりたい私は、写真研究部に入っていました。アルバイトもカメラ店や筑波万博のカメラ屋の売店で働きました。新宿を歩き街並や人並みのスナップ写真を撮影しました。素晴らしさや想いを写真を通じて伝える難しさ楽しさを学びました。長野の中仙道妻籠の合宿も思い出深いものになりました。3、4年のゼミでは有名な先生について中小企業論を学びました。卒業して直ぐに実家のカバン店に入りました。学生時代から繁忙期は手伝いをよくしていたので、雑用は出来ました。しかし、父や叔父の話を聞くとまだまだ、未熟な自分が腹立たしく悔しかった日々を今でも昨日のことの様に覚えています。その悔しさは間違いなくバネになりましたね。うちは専門店なのでカバンを始めとする革製品も別注で作らせていただきます。勿論、修理も致します。暁の星のカバンは長年、私どもが作って納めさせていただいております。お得意様や地域の皆様に支られもう直ぐ30年です。仕事を盗み、学び、感じ、気づき、今日まで頑張ってきましたが、まだまだひよっこですね。これからも祖父や父の念いを継ぎ「価値あるBagを追求」し素晴らしさを継承し続けます。


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