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タイムカプセル鞆の浦

タイムカプセル鞆の浦
第十七回 室町幕府の興亡
by 釜谷 勲 2009.8.24

 「足利氏の創業は鞆の浦に始まり、その終わりも鞆の浦なり」とは、古来この地の歴史家によって唱えられている言葉です。暦応元年(1338)足利尊氏(たかうじ)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられます。その後の二百数十年、政治の中心になるのが足利氏の室町幕府です。鞆がこの室町幕府の樹立と滅亡に大変深くかかわっているのです。

蒙古の襲来によって疲弊した鎌倉幕府は、統治能力にも衰えが見えるようになります。その機に乗じて幕府を倒し、京都の天皇を中心にした、貴族政治を取り戻そうとしたのが後醍醐(ごだいご)天皇の建武の親政です。鎌倉幕府を倒した最大の功労者は足利尊氏でしたが、貴族政治に不満を持つ武士階級のリーダー的立場に立つようになって、尊氏は親政に反旗を翻(ひるがえ)します。しかし、新田義貞や楠木正成に敗れてしまいます。

京都を追われた足利尊氏は船で九州を目指して落ちていきます。途中、鞆の浦に停泊した尊氏は数日ここの小松寺に逗留し、誰かが現れるのを待つのです。現れた待ち人は京都から尊氏を追いかけてきた三宝院の住職の賢俊(けんしゅん)でした。賢俊がもたらしたものは光厳(こうごん)上皇の院宣(いんぜん 前の天皇の命令を記した公文書)です。国内に秩序と平和をもたらすよう足利尊氏に命じたものでした。

軍事的に優位なはずの足利の軍勢が新田や楠木の軍勢に敗れたのは、後醍醐天皇に敵対する賊軍ということなり、士気が上がらないからです。そこで対等に戦うためには、前の天皇の光厳上皇の院宣が有効だと考え、尊氏が予め要請していたのです。

この院宣を錦の御旗として九州で勢力を盛り返し、再び鞆に武将を集結させて最後の軍議の後、京都に攻め上ります。そして、征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開き武家政治を復活させます。この幕府を開く大義名分としての院宣を足利尊氏が手中にしたのが鞆の浦なのです。時は建武3年(1336)2月のことでした。

室町幕府は途切れそうになりながらも15代続きます。足利義昭は織田信長に援けられて第15代最後の将軍に就きますが、その後ろ盾の信長に戦いを挑んで、逆に追放されてしまいます。これをもって歴史上室町幕府は滅亡したとされていますが、その後も義昭は将軍職を剥奪されないまま、紀州(和歌山県)あたりで幕府再興をしきりに企てます。

やがて、足利義昭は毛利氏を頼って鞆に現れます。天正4年(1576)のこの時も2月でした。幕府の要人や近臣のそうそうたる顔ぶれが付き添っていました。義昭は毛利氏が調えた城館(現在の歴史民俗資料館の周辺)から全国の有力武将に御内書(ごないしょ=将軍が出す公文書)を乱発しています。幕府再興のための打倒信長を画策していたのです。明智光秀をして本能寺に織田信長を襲わせた黒幕は、鞆にいた義昭だとする歴史家もいます。しかし、歴史は激しく動き、豊臣秀吉が天下を握り、足利氏の望みは絶たれてしまいます。

源氏の流れを汲む名家とは言いながら、北関東の一豪族に過ぎなかった足利氏が征夷大将軍として室町幕府を開くきっかけも、また、幕府再興を断念させられたのも鞆の浦でのことなのです。鞆の浦は歴史の大きな節目の舞台になっていたことになります。


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