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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2015.2.20

異業種リレーの『わ』No.499 有限会社 前岡呉服店 若女将 前岡 絵利さん


今回は、「原田美野子行政書士事務所」行政書士、原田 美野子さんのご紹介により、「有限会社前岡呉服店(福山市宮前町1丁目1番6号 TEL.084-933-3288)」若女将、前岡絵利さんに登場願いました。

 

ご縁や繫がりを大切に、
着物を通じて和の心を伝授!!

…どうせやるなら笑顔で楽しく
 尾道で生まれ育ちました。祖父母と両親、4歳上の兄と6人家族でした。おとなしい子どもだったと思います。兄について近所の友達と外で元気に遊んではいました。山に探検に行ったり、鬼ごっこやかくれんぼをして遊びました。いたずらをするつもりはなかったのですが缶けりで鬼になった時にみんなが隠れるのを待っている間に何気なく缶の中に砂を入れてしまい、缶を蹴ったときに「缶が跳ばない」と怒られたことを今でもよく覚えています。自然がいっぱいの田舎だったので遊ぶ場所には事欠きませんでした。小学校の時は校庭のタイヤで作られた遊具やジャングルジムでよく遊びました。ドッジボールも流行っていましたね。体育や運動が得意で、足も速い方だったのでリレーの選手にも選ばれました。勉強はあまり好きではありませんでしたが、やることだけはやっていました。成績は中の中でしたかね。算数や理科は好きでしたが他の科目、特に音楽は好きになれませんでした。担任は恐い先生でよく怒られました。授業中におしゃべりをして廊下にバケツを持たされて立たされたこともありました。今では良い思い出です。中学では兄の影響でテニス部に入りました。顧問の先生は厳しく恐かったですが、クラブ活動を楽しんでいました。上達のランクをその時々に1ポン2ホン3ボンと先生につけられます。3ボン以上でないと大会には出られませんでした。みんなこの「ポン」がもらいたくて頑張っていました。私は3ボンか2ホンのランクをもらって大会に出場していました。このランク付けはどこの学校も共通でしたね。今でもあるのかな?一番の思い出は学校に泊り込みで練習する通称「合宿」です。厳しい特訓なのですがいつも楽しみにしていました。何をするにしても「どうせやるなら楽しいほうがいい」と知らない間に楽しさを見つけるのが得意な私がそこにはいましたね(笑)。勉強は塾にも通っていましたが英語がどうしても苦手でしたね。好きなのはやっぱり数学と理科そして家庭科でした。手先が器用だったので祖母の料理を手伝ったり母に裁縫を教わったりと、家事は好きだったので、楽しく手伝っていましたね。夏休みの宿題にスカートを作って誉められたのがとても嬉しかったです。高校は地元の公立高校に入学しました。テニス部には入りはしましたが通学が片道1時間かかることもあってか集中出来なくて1年で退部してしまいした。通学の大変さも道中のおしゃべりや寄り道で楽しさを見つけ3年間頑張って通いました。成績も赤点を取らないギリのラインでしたが補習も無く、卒業できました。この頃も夕食の手伝いは進んでやっていましたね。

…やっぱり楽しいのが一番!
 大学は得意と楽しいを活かして栄養士の資格を取得しようと短大の食物栄養科に進みました。祖母のお陰もあり、この頃は自分の弁当は勿論、家の夕食の支度を頼まれるまでになっていました。勿論、食べるのも大好きでした。学校でもゼミやゼミの行事に楽しく参加し、充実した大学生活をエンジョイできました。卒業してからは資格を活かし食品の分析の仕事に就きたいと思っていました。有名企業や志望の企業にも合格しましたが、楽しみたいとの思いが勝ったのか?駅から近いということで、分析という2文字だけが共通の畑違いの繊維の分析会社に就職しました(笑)。ここで約9年お世話になりました。途中28歳で結婚。4年間の専業主婦、子どもも2人生まれました。下の子が1歳のとき保育園に入園させ、パートで靴屋さんに4年勤めました。37歳の時に主人の呉服店を手伝うことを決意。着物の道に入りました。当り前ですが最初は分からないことだらけでした。まずは着付けを習い、主人や義母、義父に一から修行。産地や素材、柄、等々厳しくも楽しく学びました。お客様や家族に支えられてのあっと言う間の7年でした。これからも基本を忘れず流行も取り入れながら、ご縁や繫がりを大切にして、皆様に日本の民族衣装である着物に少しでも触れていただく機会やきっかけ作りのお手伝いをさせていただきたいと思います。レンタル振袖も扱っておりますので、お気軽にお問い合わせください。


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