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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2014.8.29

異業種リレーの『わ』No.482 三谷産業株式会社 代表取締役 三谷 良平 さん


今回は、「㈲ビニックス福山」代表取締役、坂田 博幸さんのご紹介により、「三谷産業㈱(福山市沼隈町草深2785-249 TEL.084-987-3031)」代表取締役、三谷 良平さんに登場願いました。

 

地域に愛され必要とされる町医者的な建設会社を目指します!!

…やる時は一所懸命とことんと
 福山市の沼隈町で生まれ育ちました。2つ下の弟と4つ下の妹との3人妹弟の長男です。活発な性格ではありませんでしたが、外で元気に遊ぶ子どもでした。父が建設関係の仕事をしており、自宅前の砂利や砂などがある資材置き場でよく遊びました。ダンプやトラックが出入りして、今考えると危ない場所なのですが時代でしょうか平気で遊んでいましたね。海や山も近く遊ぶ場所には事欠きませんでした。小学校に上がって剣道を始めましたが、しっくりと来なくてすぐにやめましたね。勉強は嫌いでした。なんで勉強をするのかが解りませんでした。5年生の時に「海洋少年団」(ボーイスカウトの海版)に入りました。高校生や中学生もいて社会観が広がりました。厳しいスパルタ式の指導や訓練が私には刺激的で楽しかったです。中でも6人乗りのカッター(手漕ぎボート)で競技をしたり手旗信号の思い出が濃いですね。中学ではクラブは剣道部に所属しましたが、一所懸命というよりは楽しんでいましたね。スポーツ自体は全体的に好きでした。特に地域性か学校でも水泳が盛んで私も得意なほうでしたね。勉強は相変わらず嫌いでした(笑)。宿題も「まあいいや」でやらなかったことが多かったですね。家でも机には向かいますが、ごそごそするだけでよく叱られました。主にはやはり海洋少年団でした、高校まで続けていました。高校は三原の進学校を受験、合格し入学しました。通学で1時間以上かかるので寮に入ればクラブも頑張れたのでしょうが、通い組の私は帰宅部でした。沼隈から自転車で松永駅まで行って、そこからバスで学校に行きます。路線バスでしたが、朝と夕方に2本ずつ走るだけでした。朝の2本目に乗り遅れると遅刻です。朝はこのバスに乗るために一所懸命でした。乗り遅れると自転車で先回りして間に合わせます。お陰様で3年間、無遅刻、無欠勤の皆勤賞でした。遊びは通学用に買ってもらったBMXの自転車とエレキギターに少々はまりました。好きなアーティストは日本のロックバンドでジュディ・アンド・マリーでした。卒業後は地元の大学へ進学しました。ガソリンスタンドでアルバイトを始めたのがきっかけで車にめちゃくちゃハマリましたね。父が投げていたユーノスのロードスターに車検を受けて乗りました。バイト代は全て車につぎ込みました。足回りやエンジン周りはつつき始めるときりがありません。スタンドでは色んな仕事にチャレンジさせてもらいました。好きなことが仕事である喜びも味わうことが出来ました。

…覚悟
 卒業後にそのまま就職しないかと声を掛けていただきましたが、この時は父の仕事を手伝おうと決めていました。地元の水道関係の会社に就職しました。ここで5年間、水道の基本と事業のノウハウを徹底的に学びました。そして27歳で三谷産業に就職しました。最初は非破壊検査に興味を持ちました。直ちに勉強をして資格を取得、担当しました。物を壊さずに放射線や超音波を入射して内部傷を探す検査で、出張が多く日本全国を飛び回りましたが、とてもやりがいのある仕事でした。この仕事を約2年間担当させていただきました。しばらくして父が体調を崩し入院、余命を宣告されました。かなりのショックでした。と同時に今までは父を手伝うという甘い気持ちでしたが、「俺がやる!」と覚悟が出来た瞬間でもありました。まずは、父が持っている資格を片っ端から取得しようと決意。猛勉強して大きな資格は1年にひとつのペースで取得、二級建築士や宅建、施工管理技師などを取得しました。そして、2011年に代表取締役に就任、その後、父が他界しました。「なにがあっても3年は辛抱しろ」の父との約束を胸に従業員や妻、弟に支えられ、夢中であっという間の3年でした。今年のお盆の墓参りには8月の決算ではまずまずの数字が出ることを父へ報告できました。今後も益々厳しくなる建設業界の中で現在、補修や補強の新部門を立ち上げている真っ最中です。これからも地域密着型で小さくても良い仕事が出来る町医者的存在で愛され必要とされる会社を目指してみんなと力を合わせ邁進して参ります。


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