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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2014.8.8

異業種リレーの『わ』No.480 ㈲デザイン サード代表取締役 佐藤 安彦さん


今回は、「丸天産業㈱」代表取締役、佐藤 教夫さんのご紹介により、「㈲デザイン サード(福山市沖野上町2-9-29サクダビル203 TEL.084-928-4131)」代表取締役、佐藤 安彦さんに登場願いました。

 

素晴らしい絆に感謝し、
人生と使命を大いに楽しみます!

…やる時はとことん
 福山で生まれ育ちました。負けず嫌いのわんぱく小僧でしたね。小学校に上がる前に二階のベランダから転落。でも不思議に無傷でした。母は大慌てだったみたいです。そんな母の心配をよそに蔵王山を走りまわり、真っ暗になるまで芦田川でシジミを獲ったりして遊んでいました。小学校に上がってからもわんぱくぶりはエスカレート。福山城の石垣もよく登りました。勿論、命綱はありません。勉強は嫌いでしたね。もっぱら活躍の場は運動場でした。走るのが得意で徒競走はいつも一番でした。中学でも50m走は6秒4で学年では2番でした。総体の選手にも選ばれ、やった事もないハードルで4位に入賞しました。クラブは卓球部に野球部、柔道とかじりましたが。結局は帰宅部でした。家が好きでしたね、何をするわけでもなく自宅でボーっとしていましたね(笑)。勉強は中の中で相変わらず嫌いでしたが成績順に席が変わる英語の授業はカッコ悪いので密かに予習をしていましたね。高校受験は市内の商業高校にチャレンジし入学しました。クラブは背が伸びるようにとバスケット部に入りました。福山一練習の厳しいクラブだったと思います。鬼先生の下、厳しいシゴキの特訓が日曜日も休みなく続きます。1000本シュートは楽なメニューでした。坂道のうさぎ跳びは当り前、砂場は人を担いで歩きます。極めつけは10 kgのバーベルを背負ってのうさぎ跳び、そして人を担いでのスクワットです(涙)。水も飲めません。マネージャーが水を多目に浸み込ませて渡してくれるタオルから吸い取る水が美味しかったですね(嬉)。お陰で足腰はかなり鍛えられ、折れない心も養われましたね。特に跳躍力は発達し、走り高跳びは身長と同じ1m60 cmを軽く跳んでいました。日曜日は午前中のバスケの練習が終わると学割券を利用して一人で映画を観にいっていました。恋愛ものや若大将シリーズにはまっていましたね。人を笑わせるのが好きで授業中も面白い話や冗談でみんなを笑わせていました。卒業後は手に職を就けようと東京のデザインの専門学校に入りました。入って驚いたのは私以外のみんなのデッサン力の凄さでした。先生に「お前はデザインは向いていない」と言われ、負けず嫌いに火がつきムキになり頑張ったのを今でも昨日のことのように覚えています。この時期、クラスメイトにギターを教えてもらい拓郎のデビューシングル「イメージの詩」を歌っていました。四畳半のアパートの部屋で中3から付き合っている彼女とよく口ずさんでいました。(今の妻です!)

…お陰様で「初志貫徹」
 卒業後は東京の広告代理店に就職しました。面白くない!と1年で退職。日雇の道路工事やサパークラブでアルバイトをしながら生活をしていました。このころの私のテーマソングは岡林信康の「山谷ブルース」でしたね。「今日の仕事は辛かった♪後は焼酎あおるだけ♪」(笑)。22歳で福山に帰り叔父の世話で工業用品の優良企業に入社しました。やっと大人の世界に入った感を味わうことが出来ました。24歳の時に大失敗をして何百万もの損失を出してしまいました。退職するしかないと、上司に相談したところ「やめるのは簡単じゃ、ええ仕事をやってこそ男じゃ」と叱られ、大奮起!仕事が終わってから上司にも応援してもらい商品開発に明け暮れました。やっと出来た新商品が大ヒット!失敗を取り戻すことが出来ました。2年後に退職。デザイン事務所のアシスタントを二社で約3年経験して、1981年10月1日に独立「デザイン サード」をスタートしました。本気で本格的にデザインの勉強を始めたのはこの時でしたね。途中、デザイナーとして自信を無くし会社を中断したりと紆余曲折ありましたが素晴らしいクライアント様と腕の良いスタッフ、家族に恵まれたお陰で「初志貫徹」。デザイン一筋で今日まで頑張ることが出来ました(感謝)。これからも、与えていただいた人生と使命を大いに楽しみ頑張り抜きたいと思います。