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異業種リレーの『わ』

特集・読み物


2014.7.24

異業種リレーの『わ』No.479 丸天産業株式会社 代表取締役 佐藤 教夫 さん


今回は、「㈱ビジネスソフト社」代表取締役社長、井上 幹雄さんのご紹介により、「丸天産業㈱(福山市東手城町2-5-25 TEL.084-943-0666)」代表取締役、佐藤 教夫さんに登場願いました。

 

特殊技術を活かし「待っていました」と言われる
オリジナル商品を開発!!

…何事も一所懸命が信条
 神奈川県の横須賀で生まれました。外で元気に遊んでいましたが、どちらかというとおとなしい方だったと思います。近くにあった戦艦みかさがシンボルの三笠公園でよく遊びましたね。公園の岸壁から海に飛び込んで泳いだりもしました。魚の養殖場も近くにあり、魚の群れが餌のおこぼれを狙って集まってくるのを釣りに行きました。入れ喰いでバケツに何杯も鯵や鯖が獲れることもありました。小学校に上がる前に父の仕事の関係で江戸川区に引っ越しました。都内でも開発の遅れた江戸川は田畑も多く自然がいっぱいでしたね。浦安の海岸は遠浅でハゼやあさり、はまぐりの宝庫でした。川も近くフナを釣ったりカエルやザリガニをつかまえて遊びました。高学年になってからは歳の近い叔父にもらったウクレレに夢中でした。幼・小時代は色んなことに挑戦出来て良い思い出が沢山出来ました。中学に上がってからも叔父の影響でバスケットボール部に入部しました。体育館が無かったので練習は運動場でやりましたね。そんなに強いチームではありませんでしたが、練習や規則は厳しかったです。どうせなら、バスケも一番上手になりチームリーダーの部長になることを目標にしました。3年間一所懸命頑張りました。しかし、実力及ばず副部長だったのがとても悔しかったのを今でもよく覚えています。勉強も嫌いではありませんでしたよ。ある日のこと叔父に誘われ米軍のハワイアンバンドの生演奏を聴きに行きました。何ともいえない、ほんわかとした旋律は私を瞬間に魅了しました。叔父からハワイアンをやるならウクレレもいいけど花形は俺がやっているスチールギターだと言われ、見よう見まねで習いました。独特で心地よく伸びる音の虜になるのにそう時間は掛かりませんでした。高校は手に職をつけて社会の役に立ちたいと決心、都立の工業高校の電気工学科を受験し無事合格!まずは、仲間を集めてバンドを組みました。勿論ハワイアンです。当時、流行っていたフォークもやりましたが私にはハワイアンがしっくり来ました。クラブは野山を歩くワンゲル同好会に所属していました。ワンゲルの野山で奏でるウクレレは最高でしたね。2年生の途中からもっと勉強したいと思い始め大学を受験することを決意します。しかし工業科なので受験用の勉強をしていないので慌てて始めるも間に合わず一浪することになりました。1年間は猛勉強!翌年、何とか志望の6大のひとつに合格できました。

…一業に徹すると光は見える
 大学では自己流でやって来たスチールギターをプロに教えてもらう機会もあり、ハワイアンを徹底的にやりましたね。音楽部合同で春と秋には大きなコンサートもやりました。夏になるとビヤガーデンやマリーナのオープンイベントに呼ばれアマチュアバンドとしてアルバイトもしました。4年生の時にはプロの助っ人として声が掛かるまでになっていました。勿論勉強も両立で頑張りました。卒業が近づくとプロのバンドマンにならないかと誘われました。結局、東京の電気メーカーの代理店に就職しました。2年後ハワイアンで知り合った現在の妻と結婚。妻の出身の福山にやってきました。制御機器を取り扱う商社でメーカー機能も持っている福山の会社に入社。5年後に義父の知り合いの会社に転職、特殊印刷を約1年手伝いました。しかし、どうせやるならモノにしたいと深く勉強。そのことがきっかけで義父の会社に商品のラベルを中心とした特殊印刷部門を立ち上げました。当初は納得できる商品が出来ず試行錯誤、帰りは毎日で夜中でした。仕事が認められお得意様も増え軌道に乗り始めたのは10年後でしたね。1992年、代表取締役社長を就任。お客様や従業員、仲間に支えられ今日まで頑張って来られました。3年くらい前からラベル技術を活かしたオリジナルのファンシーグッズを開発「ラウンドトップ」の商号で販売をスタートしました。これからは、若い世代の熱意や可能性を信じ育てることに一所懸命に取り組み、世の中が「待っていました」と言うオリジナル商品をどんどん開発していきます。